萱野権兵衛~萱野権兵衛~天保元年(1830)~明治2年(1869)5月18日慶応4年(1868)戊辰戦争が始まると事実上責任者として戦争を指揮、 敗戦後は藩主松平容保候父子の助命嘆願に尽力する。 その結果「家老田中土佐、神保内蔵助、萱野権兵衛」が戦争責任者としてその首を差し出すことを条件に容保候父子の助命がなる。 田中土佐、神保内蔵助はすでに自刃していたので萱野権兵衛が一人でその責任を負う。 会津城開城後江戸久留米藩邸(有馬家)に幽閉された。明治2年(1969)5月14日朝議は権兵衛に対し切腹を命じたのである。 そして5月18日。 やがて権兵衛の切腹の場に当てられた飯野藩保科邸(麻布広尾)から迎えが来た。権兵衛は有馬家に厚く礼を述べるとそこを出た。 保科邸には梶原平馬と山川大蔵(浩)が来ていた。 保科邸の主、飯野藩主保科弾正忠正益は容保候の義姉照姫の実弟。 上総飯野藩保科家は保科正之の義弟保科弾正忠正貞によって立藩。 つまり会津松平家と飯野保科家本家と末家の関係であった。 権兵衛が到着すると、保科正益から本日の介錯人は剣客の沢田武司であることが披露された。 梶原と山川は権兵衛に、旧藩主容保候と照姫からの親書を渡した。 権兵衛がおし戴いて封を開いてみると、容保からの親書には 「私の不行き届きによりここに至り痛哭にたえず。その方の忠実の段は厚く心得おり候」とあり、 また照姫からの親書には 夢うつつ思ひも分す惜しむそよ まことある名は世に残れとも の一首が添えられていた。 権兵衛はねんごろな書状に謹んで礼を述べ、 「覚悟の事であるから、少しも悲しむところではない」 と言って、むしろ喜びの心を述べた。 保科家からは、直ちにこのことが軍務局に報告された。権兵衛の遺体は「保科家でよきように処理せよ」との事で、柩は浅黄の木綿に包まれ、貨物のようにして芝白金の興禅寺に運ばれて葬られた。 法名を報国院殿公道了忠居士という。 権兵衛の遺族には松平容保候から金五千両が下賜された他、自刃見舞いとして銀二十枚、喜徳からは銀十枚、照姫から銀二枚を賜わった。 この年、松平容大に外桜田門に狭山藩邸を賜わったが、松平家ではその邸の一部をさいて権兵衛の遺族らを住まわせた。 墓所は東京・興禅寺、会津・天寧寺 。 |